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安倍総理14日に硫黄島へ

安倍総理14日に硫黄島へ

先の記事の続きのようなものです。^^;
内容は硫黄島の戦いです。私の涙のもとになったものです。
兎に角長い!何度かに分けて読んで頂くとありがたいのですが・・・。

涙の訳はこれを読んであの「ルーズベルトに与える書」を読んでの号泣でした。
せめて一度は靖国にお参りをして、先人に感謝の気持ちを伝え安らかにとお祈りする必要があると思います。日本人として当たり前のことにしなければならないのではないでしょうか?

今回も他力本願で。。。

http://blog.livedoor.jp/yamato26840/archives/51248232.html
「われおもふこと」様より November 08, 200610:08

映画では無く本当の硫黄島の戦いを知っていますか??

現在、鳴り物入りの映画「父親たちの星条旗」と「硫黄島からの手紙」が話題を集めている。では、「硫黄島の戦い」と云うものが、どの様なモノであったのだろうか??

鑑みるに、
失われた品格と日本人としての美しさを感じることが出来る―――と、思う。

大日本帝國は圧倒的な物量と経済力・軍事力を誇る米合衆国を初めとする世界数十カ国を相手に戦争をすること数年余り、無敵を誇った連合艦隊も壊滅し、太平洋に於ける制海権も制空権も失っていた。
連日連夜、日本本土への米空軍の無慈悲な人口の多い都市への無差別爆撃(大量虐殺)が繰り広げられ、建国以来2600年、戦いに敗れるを知らなかった大日本帝國は滅亡の寸前だった。

米軍は日本本土の爆撃基地を強化する為、硫黄島の占領が必要不可欠だった。米軍は従来の太平洋戦線の教訓から、硫黄島は
「五日もあれば占領出来る」
―――と、タカを括っていた。しかし、帝國陸海軍は殺到する数倍の米軍を相手に一ヶ月以上持ち堪え、太平洋戦線に於いて唯一、米軍の死傷者数が日本軍を上回ると云う激戦だった。

その戦いの日本側司令官は、現在では既に伝説の名将となっている
栗林忠道

陸軍大将 栗林忠道 (1890.07.07-1945.03.26)
―――である。

栗林は陸軍大学卒業時に「恩師の軍刀(成績最優秀の者に与えられる)」を拝領し、米国・加奈陀(カナダ)勤務経験もあり、開戦前には「対米戦争反対」を唱え続けた、帝国陸軍では数少ない知米派でもあり、硫黄島転任前には、最精鋭部隊である近衛師団の師団長を務める程の実力の持ち主。

戦後、軍事史研究家や米軍軍人に対し、大東亜戦争に於ける日本陸軍将官で最も優秀な指揮官は誰であるかと質問した際、「General KURIBAYASHI」と栗林の名前を挙げる人物が多いと云われる。

それは、僅か22平方km(品川区とホボ同じ)に過ぎない硫黄島を、指揮下の兵員よりも遥かに上回る三倍以上の兵力、しかも物量・装備全てに於いて圧倒的有利であった米海兵隊の攻撃に対し、最期まで軍の士気を低下させずに互角以上に渡り合い、米側の予想を上回る一ヶ月半も防衛した事で今日に於いても日米双方から稀代の名将として高く評価される。

=硫黄島について=

ioujima硫黄島は東京の南約1,080キロ、グアムの北1,130キロ、そして東京とサイパンのほぼ中間に存在し小笠原諸島に属する火山島である。(右図参照)

島の表面の大部分が硫黄の蓄積物で覆われているところからこの名称がつけられた。故に島は火山島の様なもので常に異常な熱気に包まれており、湧き水はないので雨水を貯めて置くか、海水の塩分を除去するしかない。島は北東から南西方向へ長さ8キロ未満、幅は北部ではおよそ4キロ、南部ではわずか800メートルと異なる。島の面積は21平方キロ程度である。一番標高の高い場所は、島の南部にある169メートルの摺鉢山である。

米海軍はサイパン島占領後、B-29による長距離爆撃を行っていたが、この距離からは護衛戦闘機が随伴出来ず、日本海軍迎撃機によってかなりの損害を被っていた。そこで米海軍においては護衛戦闘機の配備、緊急着陸基地の確保によって長距離爆撃の効果を上げるため、硫黄島の確保が必要であると判断された。

硫黄島因みに、硫黄島の名称は、現在では「いおうじま」と称されることが多いが、正しくは「いおうとう」である。かつては、北、本、南3島を合わせて「いわうたう」と呼ばれていたが、やがて3島を分け、本島を「いわうたう」=「いおうとう」と呼ぶようになった。「いおうじま」の呼称は、米国の影響もあり、1980年代頃よりそのように呼ぶ人が増えてきている。

現在は、海上・航空自衛隊の基地があり、戦略上非常に重要な拠点でもある為、一般人の立ち入りが難しい島でもある。また、世界で硫黄島と伊太利の某所でしか見る事の出来ない「鶉石」や、近年発見された「イオウジママメクワガタ」の唯一の生息地でもある。

=硫黄島の戦い=

昭和20(1945)年2月19日の0200、約100機の米爆撃機が島を攻撃し、艦砲からの連射がそれに続いた。 0830に、最終的に30,000名になるV水陸両用軍麾下第3、第4および第5海兵師団の第一波が、硫黄島に上陸を始めた。

海兵隊は、島の南にある擂鉢山からの激しい砲火に遭遇しながら、荒れ地をめぐって戦った。 荒い火山灰のため、しっかりした足場も無く、塹壕を掘ることもできなかった。 しかしながら、その夕方までには摺鉢山は包囲され、30,000人の海兵隊が上陸した。 その後、約40,000がさらに続くことになっていた。

硫黄島の星条旗摺鉢山の斜面は1m毎が戦闘の連続だった。 砲撃は日本軍に対しては余り効果がなく、米軍の歩兵は火炎放射器と手投げ弾でトーチカを処理しながら前進し、遂に2月23日、1015に頂上に到達し星条旗を掲揚した。 (左図)

なお、2月21日には、千葉県・香取基地から出撃した第3航空艦隊指揮下の第601海軍航空隊所属の計32機からなる神風特別攻撃隊第二御盾隊が、途中、八丈島基地で燃料を補給したのちに硫黄島近海の米海軍艦隊に突入し、護衛空母「ビスマーク・シー」撃沈、正規空母「サラトガ」大破などの戦果を挙げた。また、これに呼応して、一式陸上攻撃機数機による米軍艦船に対する夜間爆撃が行なわれた他、日本軍側の航空支援としては、その後、陸攻部隊や陸軍の四式重爆撃機「飛龍」 による米軍上陸部隊の陣地に対する夜間爆撃なども数回実施されている。

上陸区域が確保されると、より多くの海兵隊および重装備が上陸した。また、侵攻は北へ進み飛行場および島の残りを捉え始めた。 日本軍は地下陣地、洞窟陣地に陣を構え神出鬼没の戦いを繰り返したが、硫黄島では現在でも遺骨は発掘作業が行われているが、硫黄島の戦いで最も特記すべきコトは、現在の遺骨発掘作業では、洞窟にもぐって作業する時間は安全を考慮して一人30分が限度。何故なら、火山島の為、洞窟の殆どがサウナ状態で、有毒性瓦斯の発生もシバシバあるので、長時間にわたっての作業が不可能なのである。

また、地下陣地の構築とて容易なものではなかった。
地下10mでは温度は49度にも達する。兵たちは褌一つの姿で、ツルハシ、スコップで掘っていくのだが1回の作業は3分から5分、5人一組で一昼夜掘っても1m進むのがやっとだった。
しかし、栗田の熱心な指揮のお陰で、開戦前に総延長18kmの地下壕、すり鉢山には総延長6kmの地下陣地が完成した。

さらに将兵を苦しめたのは水不足である。時折の雨水だけでは、一日4人に水筒1個分の水の配給しかできなかった。飯米は硫黄臭い地下水か海水で炊くが、ひどい下痢で悩まされた。

しかし、日本軍は、その様な劣悪な状況下で、三倍以上の敵を相手に一ヵ月半に渡る徹底抗戦の挙句、日本軍21,800人余の守備兵の内、最終的には約200人が捕虜になった(1パーセント未満)。これ等の捕虜は、爆撃の際に気絶をしてしまった者や負傷し動けずにいた者が大半で、自発的な降伏によって捕虜になった者は本当に僅かである。

連合軍は死者約7,000人、負傷者26,000人の損害を受けた。 第二次世界大戦中の海兵隊に与えられた名誉勲章の4分の1以上が、硫黄島侵攻部隊のために与えられた。

しかしながら、戦闘終結前に、早くも航空基地としての島の有効性は確証された。 それはB-29爆撃機ダイナ・マイトが、島の近くで燃料が不足し緊急着陸上陸を要請したときのことだった。 敵の砲火にもかかわらず、飛行機は島の連合軍が制圧した区域に無事着陸し、補修され、燃料が補給され、出発した。

最期を迎える前に栗林は大本営に訣別文を送っている。
戦局最後の関頭に直面せり。敵来攻以来麾下将兵の敢闘は真に鬼神を哭かしむるものあり。特に想像を越えたる物量的優勢をもってする陸海空よりの攻撃に対し、苑然徒手空拳を以って克く健闘を続けたるは小職自ら聊か悦びとする所なり。

然れども飽くなき敵の猛攻に相次で斃れ為に御期待に反し此の要地を敵手に委ぬる外なきに至りしは小職の誠に恐懼に堪えざる所にして、幾重にもお詫び申し上ぐ。今や弾丸尽き水涸れ全員反撃し最後の敢闘を行はんとするに方り、熟々皇恩を思ひ、粉骨砕身も亦悔いず。特に本島を奪還せざる限り皇土永遠に安からざるに思ひ至り、縦ひ魂魄となるも誓って皇軍の捲土重来の魁たらんことを期す。茲に最後の関頭に立ち、重ねて衷情を披瀝すると共に、只管皇国の必勝と安泰とを祈念しつつ永へに御別れ申し上ぐ。

尚、父島、母島に就ては同地麾下将兵如何なる敵の攻撃をも断固破摧し得るを確信するも何卒宜しく御願い申し上ぐ。
終わりに左記〔注:原文は縦書き〕駄作御笑覧に供す。何卒玉斧を乞ふ。

国の為重きつとめを果し得で 矢弾尽き果て散るぞ悲しき
仇討たで野辺には朽ちじ吾は又 七度生まれて矛を執らむぞ
醜草の島に蔓るその時の 皇国の行手一途に思ふ
―――と。

そして、3月26日に日本軍の最後の反攻が行われ、この時に栗林中将以下、数百人が米海兵隊に突撃した。この突撃は既に日本軍は壊滅したと思っていた海兵隊に大打撃を与えた。(ちなみに栗林中将は階級章を外していた為、戦闘後、海兵隊の探索でも遺骨を見つけることが出来なかったと云われる。)これ以後組織的な戦闘は終結し、米軍は硫黄島の確保を宣言した。

しかし、米軍の硫黄島確保の宣言後も、地下壕に生き残った日本兵が立てこもり、悲惨な状況に身を置いた。

「硫黄島上で戦った人の間で、類稀な勇気は共通の美徳だった。」――― チェスター・W・ニミッツ海軍大将

「硫黄島の戦いは、わが海兵隊がこれまでに戦った最も激越な戦いである」
「将校36名、兵866名の兵力で上陸した普通の大隊が、戦いが終わったときには平均して将校16名、兵300名に減っていた。」
―――硫黄島侵攻の海兵隊の最高指揮官スミス中将

アメリカ海軍は、USSイオージマの名をいくつかの船に与えた。

=何故此処まで戦い抜くことが出来たか??=

一般に、軍隊では指揮官や司令官が部下や将兵に信頼されていない、乃至、尊敬されていない「部隊」では、将兵の士気は著しく下がり、十分な戦闘や活動が出来ないと云われる。優秀な精鋭部隊であっても「上下の心の繋がり」が無いと十二分な成果は出せない。「軍隊と云う組織機構」は一見、機械的で無機質な印象を受けるが、所詮は人と人との組織なのでこのような側面が出てしまう。

当時、帝国陸軍では「将官」は雲の上の存在。一兵卒は将官に話しかけることすら許されない風潮があった(余談だが帝國海軍は全く別)。地下陣地や塹壕構築中の兵隊をよく見て廻っては、作業中の兵士に煙草を与え、自ら火をつけてやるような心配りを見せ、下士官・兵からは絶大な人気があった。(其の反面、権威主義的な参謀とは非常に不和でもあったが。。)

栗林中将(戦死後:大将へ昇進)は、司令官として着任後、常に将兵の先頭に立ち陣頭指揮を行っていた。また、栗田は、食事や水に関しても、階級による特別扱いを厳禁とし、自らも些少の水と、下痢をも伴う飯食を食べ続けた。

また、栗田中将の妻宛の手紙からも、決戦を目の前にした日本軍の様子を窺い知ることが出来る。
「島の将兵は皆覚悟を決め、浮ついた笑い一つありません。
悲愴決死其のものです。私も勿論そうですが、矢張り人間の弱点か、あきらめきれない点もあります。・・・・・殊に又、妻のお前にはまだ余りよい目をさせず、苦労ばかりさせ、これから先と云ふ所で此の運命になったので、返すがえす残念に思ひます。

私は今はもう生きて居る一日一日が楽しみで、今日会って明日ない命である事を覚悟してゐますが、せめてお前達だけでも末長く幸福に暮らさせたい念願で一杯です・・・・私も米国のためにこんなところで一生涯の幕を閉じるのは残念ですが、一刻も長くここを守り、東京が少しでも長く空襲を受けないやうに祈っています。」
―――つまり、

「一刻も長くここを守り、東京が少しでも長く空襲を受けないやう」という一節に、栗林中将の明確な意志が見てとれる。これは、神風特攻隊で散華した将兵達にも共通するコトだが、自らが成し得る最大の抵抗を以って時間を稼ぎ、その間に愛する者達が、敵の砲爆撃にさらさられることの無いこと・・・究極の自己犠牲を伴う素朴な愛情である。
これ等の行為を「国家による洗脳に寄る為のもの」とか、「捨石」と云う者も多く居るだろう。しかし、此処には、「国家による洗脳」と云う言葉は存在しない。人間が成し得る、極限の愛情と品格のみが存在するのみである。

死に急ぐのは容易いである。しかし、二万余の将兵に玉砕を覚悟させながらも、「一刻でも長くここを守る」為に、長く苦しい戦いをいかに続けるか、そこに中将の苦心があっただろうし、その様な意志を将兵に徹底させたからこそ、劣悪且つ絶望的な状況下で、あそこまで頑強な抵抗が出来たのである。

云ってしまえば、究極の人身掌握とマネージメントが会ったからこそ成し得た訳である。

=栗林忠道を知るためのオススメの二冊=

散るぞ悲しき 硫黄島総指揮官・栗林忠道


「玉砕総指揮官」の絵手紙


しかし戦後、栗田中将は、硫黄島の偉業によって、
半ば神格化され、伝説の名将となった感じも否めない。

しかし、事実は「伝説」と異なり、栗田中将は戦闘の末期に精神的弱さを露呈し、指揮能力を喪失、白旗を掲げ米軍に降伏しようとして、部下に射殺されたと云うのが真相らしい。

それは防衛庁の内部文章「硫黄島作戦について」と、云うものに記載されている。これは、硫黄島関係者の聞き取り調査の記録である。

これに拠ると、栗田中将は敵上陸後、一週間程度は司令官として守備隊を統率していたが、「ノイローゼ」で全く役に立たない状態となり、その後の作戦指導は、高石参謀長、中根参謀、海軍の市丸参謀の三人が中心になって司令部を運営していた。
命令の大半は中根参謀が起案し、各種報告等も、中根参謀の筆であると云う。

第109師団参謀 堀江芳孝 陸軍少佐の証言
「今これ等の事項を部外、特に遺族に発表をすることは問題があるが、戦史としては事実を残す必要があるので、私は事の真相をその侭申し述べます。

終戦後、副官小元少佐がDT6(独立混成部隊)某軍曹から聞いた話。

3月23日、D長(栗林中将)は、此処まで善戦して来たのだから降伏しても良いと言われ自ら白旗を掲げ兵数名を伴い米軍第一線に赴き降伏交渉をして来た。中根参謀は降伏すべきでないとD長を諌めたが、D長は聞かなかった。

中根参謀は壕の入り口で自己の軍刀を抜きD長の首を刎ね自ら拳銃で自決した。高石参謀長、及び市丸(海軍)参謀は首実験をして壕を出て行った。当時は薄暮で薄暗かった。」
―――と、なっている。
その後、ノンフィクション作家がこの証言の元の某軍曹を探し出し、聞き取りをしたところ、其の通りであると、云った様な答えが返ってきたという。

http://nipponbanzai.at.webry.info/200912/article_5.html
「国民が知らない素晴らしい日本」様より
硫黄島の話 << 作成日時 : 2009/12/09 12:59

 私も参加しておりますソーシャル・ネットワーキング「SNS FreeJapan」にて、心に染みる記事がありましたので紹介させて頂きます。

以下、引用開始

●●さんの日記(全員に公開)

みなさんに御願がございます。

まずこれを読んでください。
「硫黄島の話。

硫黄島は「いおうとう」が正しい読み方である。
「いおうじま」という読み方は、日系のアメリカ兵がその読みの音を知らず、「いおうじま」と読んだことがきっかけだったそうで、つまり、「いおうじま」はアメリカ側の読み方だ。
したがって、日本人は「いおうとう」と読むべきなのであろう。

硫黄島は東京都小笠原村にある。
つまり、日本の島だ。
しかし、なぜか一般の日本人は硫黄島に行くことができない。

それなのに、映画「硫黄島からの手紙」の撮影ためにクリント・イーストウッドらは硫黄島に入ることができた。
その理由を防衛省は、「アメリカの国務省が要請してきたから」だと言う。
しかし、日本の領土にアメリカは関係ないはずだ。

先の戦争時、硫黄島には日本人兵士2万1千人が派兵された。
この時戦争は末期だったため、ほとんどの人が職業軍人ではなく、元は一般の方々だった。 
その2万1千人のうち、無事生還出来た者はたったの1033人。
お骨として帰って来た者は8千人ちょっと。
残りの1万人以上の日本人の骨がまだ埋まったままだ。
しかも、彼らは今の多くの日本人に忘れられている。

アメリカ軍は硫黄島を占領した後、たくさんの日本兵の遺体の上にそのままコンクリートを流し、滑走路を敷いた。
戦後から23年後、アメリカから返還された硫黄島は自衛隊が管理することになり、埋もれた彼らの骨を拾うためその滑走路は、ずらされた。
しかし、完全にずらしたわけではなく、元の位置と大部分が重なるため、まだたくさんの骨がそのままである。
自衛隊機や硫黄島に来る飛行機は、今でも彼らの骨の上で離着陸をおこなっているということだ。

硫黄島には、日本兵たちが掘った地下壕がある。
その地下壕は、手のひらの長さぐらいの大きさしかないトンカチなようなもので掘られた。
1日に1メートルしか掘り進めなかったそうだ。
しかも、硫黄島は地熱や島の位置などから、時には気温が60℃を超える。
連続した作業は5分も続かなかったそうだ。

その壕は入り口から奥までは狭いが、奥の空間はちゃんと人が立てるぐらいの広さがある。
奥までの狭い通路は曲がっていたり、側面には穴がいくつか掘られている。
これは米軍の攻撃が壕の奥にまで届かないようにするためだ。
側面の穴は火炎放射器の火炎の抜け道になる。

栗林中将(映画「硫黄島からの手紙」で渡辺兼氏が演じた役)は、部下たちに「自決」と「万歳突撃」の禁止を命じた。
これには部下たちから批判が続出した。
なぜなら、硫黄島が陥落されることは、みんな分かっていた。
であれば、潔く最期を遂げるのが、日本兵の武士道ならではの習わしだったからだ。
特に捕虜になることは恥ずべきとされていたからである。

しかし、栗林中将には考えがあっての命令であった。
硫黄島はアメリカの軍事戦略上、重要な島であった。
なぜなら、アメリカにとって、硫黄島は日本への本土爆撃のための拠点として必要だったからである。
とすれば、硫黄島の陥落が一日伸びれば、一日爆撃が遅れる。爆撃が一日遅れれば、その一日分、日本国民の命が救われる。
したがって、潔く死なずにできるだけ粘る方が良い。

栗林中将はみんなをそう説得し、日本国民を護るために戦っている日本兵は納得した。

そして、硫黄島の陥落をアメリカは5日間を予定していたが、日本軍の奮闘で36日間もかかった。
31日分の日本人の命が救われた。
その救われた命は誰の命だろう。

陥落されると分かっていながら、灼熱の60℃の中で地下壕を堀り、蒸し風呂状態の壕の中でじっと耐え、武器を持って、強力なアメリカ軍に立ちはだかった。
これは生半可な気持ちでできるわけがない。
なんのために、日本兵はここまでしたのか。
それは決まっている。
本土にいる女・子供のため、我々の未来のため、つまり私たちのためにやったのだ。

その彼らが命を懸けて護った日本は今どうなっているのか。
親が子を殺し、子が親を殺し、仲間をいじめて自殺に追い込み、連日のように異常な犯罪ニュースが流れ、大した事件でも何も感じなくなってはいまいか。
個人主義がはびこり、自分にしか興味がなく、自分の為にしか生きていない。

硫黄島で散った兵士たちは我々をどう見ているだろうか。

我々がこの日本をどんな国にするのか。
我々がやらなければならない。

アメリカ兵の遺族は国費で慰霊のために硫黄島を訪れることができる。
また遺骨のほとんどがアメリカに帰ることができたそうだ。

しかし、日本の遺族は硫黄島まで自費で行くか、ボランティアの援助しかなく、多くの遺骨が埋まったままだ。

クリント・イーストウッドは、「硫黄島からの手紙」の撮影の際、日本人スタッフらに硫黄島での戦いについて尋ねた。ところが、日本人スタッフは誰もその実態を知らなかった。
クリント・イーストウッドは大変驚いたそうだ。

硫黄島の戦いは、日本が圧倒的に不利でありながら、日米間でもっとも激しい戦いで、唯一米軍の損害が日本の損害を上回った戦いだった。
そんな戦いをした栗林中将にアメリカは尊敬をしていたからだ。
そのため硫黄島はアメリカにとって日米戦の勝利の象徴になっていた。

硫黄島から生還された方に、金井啓さんと言う方がおられる。今年83歳の元海軍下士官だ。その金井さんに、独立総合研究所の青山繁春氏がこんな質問をした。

「日本は悪者だったと教えられたため、日本人はみんな無関心になってしまったのでしょうか?」

すると、戦後多くをずっと語らずにいたという金井さんが、

「その通りだよ!俺達のどこが悪者なんだ。あなた方を守るために私たちは闘い、みんなは死んだんだ!」

そうして、次のように語った。

「帰って来てから水のことが忘れられない。地下壕でじっとしている間、タンクにある水だけが頼りだった。仲間が死ぬ寸前、水をくれというので、水と言っても60℃ぐらいありますから熱湯です。その水を末期(まつご)の水として、仲間の口にあててやるんです。そうすると熱湯だから唇が腫れるんです。だから、今はキンキンに冷やした水を仏壇に供えてやっているんです」

栗林中将は戦闘で斃れる間際このような短歌を詠った。

『国の為 重きつとめを 果たし得で 矢弾尽き果て 散るぞ悲しき』

金井さんは青山氏と別れるとき、小さく海軍式の敬礼をした。 」

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

実録 硫黄島玉砕
硫黄島http://youtu.be/wc9Cq5CkUZY



14日に安倍首相が硫黄島に行かれます。
米軍が自国の兵士の遺骨だけを持ち帰り、日本人の遺体の上に滑走路を造ったそうです。
私の先日の涙の訳はこの硫黄島の戦いにあります。
この滑走路を取り壊し遺骨を回収するそうです。

そんなこともあり、この硫黄島を取り上げました。
なぜか偶然にも日にちを前後してこのルーズベルトに与える書を見たのです。
それにまつわる硫黄島の戦いを調べることにしました。
夫々の方の思いもあって長くなりましたが、お三方のブログから転載させていただきました。

ねずさんはその後も記してくださっています。
長くなりますが今一度先人の思いに触れていただきたいのです。
今駐在している自衛隊員の方々は不思議な経験をされるそうです。
未だに兵士の声が聞こえたとか、水を飲みたいとかネットでは結構出ている話だそうです。

http://nezu621.blog7.fc2.com/blog-entry-1112.html
「ねずさんのひとりごと」様より

        硫黄島の日章旗

       硫黄島の擂鉢山



カン総理が、硫黄島に行かれました。
戦後、総理として硫黄島に行かれた方が少ない中で、日本の内閣総理大臣が硫黄島に
行かれたという事実は、評価すべきことと思います。

しかし彼は、軍手で手を合わせていました。
ああいうところに、本心があらわれてしまう。

そもそも一方において自衛隊を暴力装置呼ばわりした閣僚を野放しにし、一方において尖閣問題や南北朝鮮の砲撃合戦があり、現実に竹島を武力で制圧され、北方領土にはロシアの大統領やら副大統領やらが公然とやってきているというこの国際情勢の中で、ただでさえ要員数が不足して身動きがとれない自衛官をさらに人数を圧縮するなどと、公然と述べている総理が、なんでこの時期に硫黄島なのか。

そして堂々と軍手で手を合わせるという非礼をマスコミを通じて発表する。
なんだか情けなくてたまりません。

硫黄島については、昨年6月に「硫黄島の星条旗と日章旗」という題で、文章を書かせていただきましたが、今回、このカンソーリ事件に鑑みて、その記事を再掲したいと思います。

硫黄島の思いを、みなさんと再確認したいのです。

~~~~~~~~~~~~~~

硫黄島の戦い(昭和20(1945)年2月16日~同年3月26日)は、大東亜戦争末期に小笠原諸島の硫黄島において日本軍とアメリカ軍との間に生じた戦闘です。

日本軍は、20933名の守備兵力のうち20129名までが戦死されました。
硫黄島の戦いは、大東亜戦争後期の島嶼での戦闘において、アメリカ軍地上部隊の損害(戦死・戦傷者数等の合計)実数が、日本軍を上回った壮絶な戦いでもあります。

第二次世界大戦中にアメリカ海兵隊に与えられた名誉勲章の、実に4分の1以上が、硫黄島侵攻部隊のために与えられています。
さらに米海軍は、いくつかの艦船に「イオー・ジマ」と命名しています。
大戦後に制定されたアメリカ海兵隊記念日は、硫黄島の戦いにおいて、同島の擂鉢山に星条旗を立てた日でもあります。
戦没者を弔う米国立アーリントン墓地のアメリカ海兵隊戦争記念碑は、硫黄島の戦いで掲げられた星条旗をかたどったものです。

硫黄島の星条旗と日章旗

        硫黄島の星条旗と日章旗

当時、全米で新聞紙上を飾った硫黄島の戦いを象徴する写真


今日書くのは、この写真にまつわるお話です。

硫黄島は、その字のごとく、島全体に硫黄が噴き出す島です。
地下壕内の温度は、摂氏50度に達します。

地下壕内には、水もありません。
壕内にこもる将兵の水は、ですから外からパイプで、壕内に引きこんでいました。
ですから、上の写真の星条旗にある旗竿のパイプは、この写真が撮られたとき、まだ壕内に残っている日本の将兵たちの命を支えるためのパイプでした。

その、写真に写っている星条旗は、最初に掲げられたものではありません。
いったん掲揚されたあと、あらためて写真撮影のためにと、大型の星条旗を掲げたときのものです。

AP通信の写真家ジョー・ローゼンタールが写したこの写真は、同年のピューリッツァー賞(写真部門)を受賞しました。
創立以来常にその存在意義が問われ続けていたアメリカ海兵隊は、この写真によって水陸両用作戦のプロとしての存在を広く世界へ向けて示しています。

この光景を目撃したフォレスタル海軍長官は「これで海兵隊も500年は安泰だな。」と語ったといいます。

実は、硫黄島の戦いの時点で、米国政府は歳費を使い果たし、国家破産目前の状態にありました。
けれど、この硫黄島の星条旗写真によって、膨大な戦費が民間の寄付で集められ、破産の危機を救っています。
この写真に写っている兵士たちが全米各地を回り、寄付金を得るための講演をしてまわっていた、というのも有名な話です。


この旗について、映画では語られない実話があります。
それが何かというと、実は米軍が擂鉢山に星条旗を掲げた翌日、摺鉢山守備隊の日本兵がこれを奪還して、日章旗を掲げていたという実話です。

米軍は、この日章旗を引きずり下ろし、火炎放射器で焼きました。
そしてかなり時間をかけて、次の星条旗を掲げています。

けれど、この二度目の星条旗も、日本側の守備隊は奪い取りました。
そして今度は、やや赤茶けた色の日の丸の旗が掲げました。
血で描かれた日の丸でした。
この旗も、三度、星条旗に変わり、その後、日章旗に戻ることはありませんでした。

このときの様子を、当時17歳の通信兵だった秋草鶴次さんが手記に記しています。
(「17歳の硫黄島」秋草鶴次著)

米軍は、上陸5日目に、硫黄島南端の摺鉢山に星条旗を掲揚しました。
秋草通信兵はそのとき、島の周囲に展開する米側の艦船群から汽笛が鳴らされ、上陸していた多数の米将兵から一斉に歓声が上がり、口笛が吹かれるのを聞いていたのです。
大変、賑やかだったそうです。 

翌日、秋草通信兵は、摺鉢山の頂上に今度は日章旗がへんぽんと翻っているのを、島の反対側にある硫黄島の司令本部から見ています。
彼はすぐに栗林中将を呼びました。
遠く、擂鉢山のてっぺんに、日の丸が翻っている様子を見た中将は、
「守備隊は頑張ってるな」とポツリと語られました。
それを聞いたとき、秋草通信兵は、思わず感涙にむせいだといいます。

けれどこのとき、私達日本兵が立てこもる地下壕の中は、凄惨を極めていました。
水も食料もありません。
蚤や虱は、追っ払うのでなく、捕まえ、つぶして食べたそうです。
傷口が化膿してウジ虫がわく。
それも口に入れました。
噛んで汁を吸い、ついで皮を噛み砕こうとしますが、これが意外と堅かったそうです。
また、実家で豚の餌に、炭を混ぜていたことを思い出し、炭も口にしたりしています。

壕の中は、息苦しく、ありとあらゆる不快な臭いに充ちていました。
天然の硫黄臭に加えて、排泄物のにおい、死臭、流れ出た血の腐臭。
それは耐え難いものだったといいます。

死体からは燐(りん)が流出しました。
燐は、浮遊しながら、あちこちで燃えて火の玉となりました。
「ひとだま」です。
大怪我をしていた秋草さんは、まどろみ、もうろうとなり、三途の川らしき光景に身を置くところまで見たと書き遺しています。

敗色濃厚となった頃、米軍から投降の呼びかけがありました。
既に捕虜となっていた日本兵が「戦争は終わった。米軍は安全を保証する。心配ない。みんな安心して出てきてくれ。」と放送して回ったりもしたそうです。

しかし壕にいる兵士たちは、誰ひとり、そんな呼びかけに応じなかったそうです。
なぜでしょうか。

硫黄島の戦いのあった前年(昭和19(1944)年)夏、アメリカ軍はサイパン島を攻略し、11月からB-29で日本本土への長距離爆撃を開始しました。

硫黄島は、サイパンと日本本土のちょうど中間地点にあります。
ですから日本にとって硫黄島は、日本本土へ向かうB-29を見張り、無線で報告する早期警戒システムの索敵拠点でもあります。
硫黄島は、航空隊の拠点でもありました。
そこを拠点に、戦闘機をB-29の迎撃に向かわせることもできたのです。

実際、日本軍の爆撃機飛龍や銀河・一式陸攻が硫黄島を経由してマリアナ諸島にあるB-29の基地を急襲し、地上のB-29に損害を与えています。
12月には、硫黄島を飛び立った零戦隊「第一御楯特別攻撃隊」は、サイパンのイスレイフィールド・アスリート両飛行場を機銃掃射し、11機のB-29破壊し、8機に大きな損害を与えています。

このことは米軍にとって脅威です。
日本軍の硫黄島守備隊の存在によって、米軍は、グアム、サイパンからの出撃に際して、B-29に護衛の戦闘機部隊を随伴させることができません。
なぜなら距離の関係上、小柄な戦闘機はガソリンが持たないのです。
また日本上空で損傷を受けたり故障したB-29が、小笠原諸島で不時着することも多かったのです。

ちなみに、不時着して拿捕したB-29から、日本軍は航空燃料やオイルを抜き取り、これをゼロ戦や紫電改に用いました。
当時の日本軍は、オクタン価の低い粗悪なガソリンで飛行機を飛ばしていたのですが、米軍のガソリンやオイルを使って戦闘機を飛ばすと、機体の性能が「眼の球が飛び出るくらい」向上したそうです。

日本からしてみれば硫黄島は本土防衛の拠点です。
ということは、米軍からみれば、そこは日本本土への攻撃のための拠点となります。
ですから米軍は硫黄島の占領をはかったのです。

占領の目的は、次の通りです。
1 日本軍航空機の攻撃基地の撃滅
2 日本軍の早期警報システムの破壊
3 硫黄島を避けることによる爆撃機の航法上のロスの解消
4 損傷爆撃機の中間着陸場の確保
5 長距離護衛戦闘機の基地の確保

このことは、日本からすると、硫黄島を死守することは、上記の目的の裏返し・・・を達成することにもつながるということです。

すなわち、
1 米航空隊を本土に来襲する前に撃滅する
2 米軍の空襲を早期に発見する
3 米軍の爆撃機に戦闘機の保護をつけさせず、まる裸にする。

前にも書きましたが、爆撃機というのは、大型であって荷物(爆弾)をいっぱ積んでいます。
当然機体は重いし、派手な宙返りなどはできない。
戦闘機からしてみれば、爆撃機というのは、ある意味、ネタでもありました。
ですから大型の爆撃機は、機体の四方八方に機銃を並べて防御力を強化しています。
これは、そうしなければならない事情があったから、です。

昭和20年になると、日本は、すでに制空権、制海権を奪われていました。
その中で、硫黄島への補給は困難を極めたし、何もない島しょにおいて、補給困難というのは、島が長く持ちこたえられないということでもありました。
これがどういうことかというと、硫黄島守備隊は、はじめから玉砕を覚悟の部隊だったということです。

島に駐屯している2万人全員が死ぬことを覚悟していました。
なぜ死ぬとわかっていても戦ったのでしょうか。
答えは簡単です。

硫黄島を米軍に奪われれば、米軍は硫黄島に航空基地を作ります。
そうすると、B-29が、戦闘機の護衛を受けながら、なにはばかることなく日本本土上空に飛来し、爆弾の雨を降らせる。
そうすると、爆撃を受けた町で、大勢の日本人が死ぬのです。

戦士であれば、自分が戦って死ぬのはある意味、本望です。
しかし、銃後を守る婦女子や非戦闘員、爺ちゃんや婆ちゃんや、オヤジやお袋、愛する子供たちが、みすみす犠牲になることだけは、絶対に防ぎたい。
手の届かない上空から、無差別に爆弾を落とされて、真っ赤に焼けて死んで行くなんて、絶対に見過ごせない。
それをわかっていて指をくわえて見ているなんて、人間のすることじゃありません。
だから戦いました。

米軍に、硫黄島を絶対に渡さない。
島にこもる全員が玉砕することになったとしても、その戦いを長引かせることで、ひとりでも多くの同胞が疎開し、助かるようにする。
それが、硫黄島守備隊のひとりひとりの覚悟だったのです。

ですから硫黄島守備隊は、上陸部隊にできるだけ大きな対価を支払わせ、日本本土への進攻を1日でも遅らせる決意をしていました。
いちにちでも多く硫黄島を守り抜けば、それだけ日本本土にいる多くの人々が、疎開できます。
いちにちでも多くの日を稼げば、多くの日本人が、ひつつでも多くの防空壕を作ることができます。

そのための石礎となろう。
そのために死のう。
その決意と覚悟で、2万人の硫黄島守備隊は決死の戦いに臨んだのです。

ペリリューの戦いでは、日本軍は地下陣地を活用して長期の抵抗に成功しています。

栗林中将率いる硫黄島守備隊は、この戦術をさらに発展させ、地下陣地による持久抵抗によって、いちにでも長く敵を硫黄島に踏みとどまらせ、上陸部隊をすり減らすという作戦を選択しました。

客観的な数字を申し上げたいと思います。
硫黄島を奪われたあとのことです。

米軍は、日本本土にB-29で空爆を行いました。
東京だけでも、死者8万3793名、負傷者4万0918名の被害が出ています。

被災者は、100万8,005名です。
被災家屋は26万8,358戸にのぼります。

米軍は、1平方メートルあたり、3発の焼夷弾を、東京という木造家屋が密集した町に落とし、東京中を焼いて焼いて焼きまくりました。

にもかかわらず、死傷者の数が被災者数に対して意外とすくないのは、硫黄島守備隊が、およそ1か月半にわたる長く苦しい戦いを戦い抜いてくれたおかげなのです。
硫黄島守備隊が、あらゆる艱難辛苦に耐えながら、戦い続けてくれたおかげで、東京を含む太平洋側の多くの都市では、人々が疎開したり、防空壕の強化をすることができたのです。

もし、疎開がまだ十分に進まない、防空壕など、空襲対策も十分でない状態で、本土空襲が行われたら、どれだけ多くの民間人が亡くなったことでしょうか。
おそらく東京だけでも100万人以上の死者が出ています。

つまり、いまを生きている私たち日本人は、このとき命を犠牲にしてまで苦しい戦いを戦ってくださった父祖のおかげだ、ということです。

そのことに、私たちは、深く感謝しなければならないと思うのです。
それが人として当然のことです。

秋草さんは、
「死んで行った戦友に、この六十年戦争が無かったんだから、その死は無意味ではない。そう言ってやりたい」と語られました。

おそらく、この稿を読まれている方でも、戦争に賛成だとか、戦争を賛美するような人は、誰もいないと思います。
誰だって自分の体にわいたウジ虫など、食べたくなありません。

けれどそうまでして我々の祖先が守り抜いてくれたこの日本という国を受け継いだ私たちは、今度は私たちの子や孫、そして子孫のために、やはり住みよい素晴らしい国日本を残せるように、努力しなくちゃいけない。
そう、思うのです。

他国と仲良くすることは、大いに結構です。
外国人がたくさん日本列島にやってくることも、結構なことです。

しかし、日本を攻撃し、日本の文化を破壊し、日本の奴隷化を目論むような、とんでもない連中まで、ニコニコ笑顔で呼びこむ必要など、全くない。

世界には、いまだに日本と戦争をしている気になっているおかしな国があります。
そしてそれらの国々は、日本だけでなく、平和を愛する周辺国、さらには自国民に対してまで、人命軽視の非道を公然とやってのけている。

実際、東トルキスタンや、ネパールで何が行われたか。
反日教育を受けた半島人が、現にいま日本で何をやっているか。

在日韓国人の魯漢圭は、在日韓国人のための民団の新聞にこう書いています。

「もはや裏社会は我々(在日韓国人)が制圧した。その暴力と経済力を背景に日本の政官財界を侵略する。60万在日の経済力は日本経済の2割に相当し、それは実に韓国の経済力の2倍という凄まじい物だ。
経済力に加え、地方参政権によって政治力も手に入れ、やがては軍事力も手にした日には完全に日本から独立した、世界で最も豊かな国家を手に入れることが出来る。
もはや完全に在日の奴隷状態の日本人には、在日国家の軍門に下って貰うことになる。
こうして、在日朝鮮民族はアジアの頂点に立つことが可能となり、半島と日本を実質支配する」

この国には、私たちを守るために、自分のからだにわいたウジ虫まで食べて戦い、玉砕し、散っていった人達がいたのです。
その英霊たちのおかげで、いま、私たちは生きています。

擂鉢山の頂上に、ぺんぽんとひるがえった日章旗。
米軍が建てた星条旗は、地下壕に立て篭もる日本の兵隊さんたちの貴重な水確保のためのパイプでした。
そのパイプを取り返し、星条旗を外して雨水導入管として利用すれば、彼らは今宵の一杯の水を確保できたのかもしれません。
しかし彼らは、気温50度に達する地下壕にいて、自分たちの水より、擂鉢山のてっぺんに高々と日の丸を掲揚することを選び、実際、それを実行してくれた。

みんな死んでしまいました。
硫黄島で擂鉢山に日の丸を掲げてくれた日本兵が、誰だったのか、赤黒い血で描かれた日の丸は、誰の血だったのか。
いまもう、誰にもわかりません。

けれども、この日、米軍の掲げた星条旗を引きずりおろして、硫黄島に日章旗を高々と掲揚してくれた日本人がいたという事実を、私たちは決して忘れてはならないと思います。

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