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海外での日本人

海外での日本人

最近は記事を消してしまうことが多く、少しだけですが諸々書いていました。
けどなぜか消えてしまう、どこを触るのか無事な時もあるし・・・諦めて何も書かずに載せたいと
思います。
とてもいいお話しなんですが、教科書の副読本、いえ教科書に乗せるべき話だと思うのです。

大成建設ライブラリーの中にあった週刊誌が、何週かにわたって載せたお話を、そのまま転載させていただきます。

http://www.taisei.co.jp/about_us/library/column/tachi/2005/1168584033044.html

大成建設株式会社
大成建設 | ライブラリー

週刊文春「立ち話」


風台湾に水を引いた神・八田與一(1)

麗しき島

 八田與一という人物をご存じだろうか。

 一六世紀末、はじめて台湾を見たポルトガル船員は、思わずフォルモサ・麗しき島と叫んだという。

 九州とほぼ同じ大きさの台湾を、嘉義市から東へ真っ二つに横切る北回帰線。その北は亜熱帯、南は熱帯地域だ。そこをさらに南下した台南市からバスで八〇分ほどの静かな山あいに、八田與一の銅像がある。戦後、すべて日本人の銅像が壊されるなか、台湾の人たちによって守られ、一つだけ残った銅像である。

 嘉義と台南、両県にまたがる地域は嘉南平原と呼ばれる。八田與一がその農民たちからいまも神と敬われているのはなぜだろうか。

 かつて嘉南平原は、洪水、干ばつ、塩害という三重苦に喘ぐ不毛の大地だった。

 いまや世界でトップクラスの経済社会を築いている台湾だが、十六世紀以降、その道のりは第三国による支配の歴史でもあった。

 そしていまから一一〇年前、日本領となった台湾は“化外の地”つまり主の居ない未開地とまで言われていた。アヘンとゲリラも悩ましいその地に、後藤新平が民政長官として赴任したのは明治三一年。そこから台湾のインフラ整備が始まった。そこで言うインフラとは、道なき道を拓き、港や鉄道、上下水道といった産業と暮らしを整えるための基本的な骨格づくりであった。

 そして大正時代に入り、後藤の敷いたレールの上で若き台湾総督府技師・八田與一が広げた大風呂敷は、嘉南平原全域の灌漑事業。費用も規模もケタ外れだった。総督府のみならず地元農民すら呆れた。しかしこの大風呂敷、與一の綿密な調査に裏づけられていた。

(掲載号:09月08日号)

http://www.taisei.co.jp/about_us/library/column/tachi/2005/1168584033017.html

風台湾に水を引いた神・八田與一(2)

嘉南大しゅう

 朝もやが立ちこめる前の暁、台湾の嘉南平野をうるおす烏山頭水庫には、蒼い湖面に大小の小島が浮かぶ。サンゴが枝を広げた湖岸の描線から「珊瑚潭」とも呼ばれる。この台湾最大の人造湖が灌漑用ダムであるとにわかに思えないのは、柔らかな風景と化した土堰堤のためであろう。

 土木用語で言うならセミハイドロリックフィル工法。コンクリートは土台の中心部だけに用い、その上を粘土で固め、さらに放水しながら土砂を盛る。いわば土と石でつくった堤防の長さは一二七三m、高さ五六m。台湾に多い台風や地震でもいまだ揺るぎない。完成の後、アメリカの土木学会は「八田ダム」と命名して、その優秀な技術を讃えた。

 東京帝大工科大学で八田與一を教えたのは土木工学科の廣井勇教授。パナマ運河で活躍した青山士は八年先輩だった。海を渡って未曾有の難関に挑んだ恩師や先輩に刺激されたであろうことは想像に難くない。

 そして、八田が嘉南の農民たちから「嘉南大 の父」と慕われるゆえんは、平原に張り巡らせた一六○○○kmもの給排水路にある。この長さは、万里の長城の六倍以上、地球半周に近い。土へんに川と書く「 」は中国語で農業用水路、「大 」は途方もなく長い用水路を示す。

 台湾最大の穀倉地帯として蘇った嘉南平野。やがて生活が一変した。教育費の捻出によって、多くの有能な人材も育った。固辞する八田を説き伏せ、感謝の銅像が建った。大任を果たした八田は次の仕事のために出航した。だが、その船は東シナ海で撃沈された。持てるすべてを台湾に尽くして散った五六歳の生涯だった。

(掲載号:09月15日号)

http://www.taisei.co.jp/about_us/library/column/tachi/2005/1168584032990.html

風台湾に水を引いた神・八田與一(3)

国交なき交流の懸け橋

 没後六二年、八田與一の命日である五月八日、今年も台湾の烏山頭ダムのほとりで慰霊祭が行われた。

 台湾に希少な御影石を探して八田與一夫妻の墓を建立し、以来、欠かすことなく墓前に参っているのは、嘉南平野で農業を営む農民たちであり、その農民たちを指導してきた嘉南農田水利会の職員たちである。

 「私たちは八田技師の恩を末代まで忘れません」。いまもダムを管理する嘉南農田水利会の徐金錫会長。水を飲む時は井戸を掘った人に感謝するという中国の諺「飲水思源」の思想が根づく。

 そうした思いを深く受けとめ、一九八五(昭和六〇)年から墓前祭に参加しているのは、「八田技師夫妻を慕い台湾と友好の会」(金沢市)事務局長の中川外司さんとそのメンバーたち。

 昨年三月、金沢市は八田與一を郷土の偉人として永く顕彰することを決めた。台湾の実業家から八田與一の胸像が、市の「ふるさと偉人館」に寄贈された。

 台湾国民中学の国定歴史教科書『認識台湾』(平成十年採用)に、八田與一技師が農業改革に貢献したと記されたのは、歴史的にも画期的なことであった。

 台北日本人学校では、社会科や道徳の授業で八田與一の学習を進め、修学旅行は烏山頭ダムに行くという。今年の五月、中川さんら友好の会二八名が墓前祭の帰途、学校を訪れた。その中には八田技師の長男・八田晃夫氏もいた。嘉南大しゅう工事着工の年に生まれた晃夫氏。高齢を押しての訪台だった。児童たちに「日台の懸け橋になれ」と訴えたという。近くて遠い台湾と日本。しかし、八田與一に導かれて国交なき交流が着実に進んでいる。

(掲載号:09月22日号)
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   台湾で愛された日本人、八田 與一。
    http://youtu.be/h_Q58xkC3rI






時々ナレーションが首をかしげたくなるのはテレビ局の偏向でしょう。
あくまでも日本を貶めたいがためのナレーションだと思います。
(テレビで放映されるのは何も知らされないよりもマシかなとも思います。)

日本国内と同じような生活をというのが当時の日本政府の考え方。
かの国が言うようなことはありえません!

東日本大震災の時もどこよりも早く(当時の政権に足止めされていましたが)総額250億円という
最大の義捐金(もちろん品物も含めてです。しかも今でも続けてくださっています。)を
送って頂いています。

私が台湾を好きになった理由は小さい時に何があったのかは覚えていませんが、父が私を膝に乗せていて
「台湾はシナじゃないっ!台湾は台湾、ちゃんとした独立国だ!」と叫んだことを鮮明に覚えています。

息子がパソコンを初めるようになり、私も扱い方を教えてもらうようになりました。
文字を打つのはチャットしたり、文章を打ち込むと上手くなるよと教えられてからです。
そして2ちゃんねるで高砂義勇兵の募金のことを知り、泣きました。
若い人たちが必死に過去のことに向き合う姿に心を打たれました。
もっとたくさんのことを知りたいと思うようになりました。

自分の体の中に流れている血が慰安婦や南京大虐殺があったということに激しく反応しました。
日本人がそんなことをするはずがないと。

ニューギニアで日本人と共に戦った台湾・高砂義勇隊【大東亜戦争】
http://youtu.be/hKpVDy6os9Q



日本人は何時でも高潔なのです。

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