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我慢のアート

我慢のアート

なんとなく心が乾いているのか・・・感情がこみ上げてきて思わず涙しました。
どん底にあえぎながらそれでもなお、失われる事の無い精神の気高さ、絶望を希望に変えて其処にあることの価値を次に語り継ぐ事の出来る先人達。

彼らの遺した遺志を語り継ぐ事が出来るのでしょうか?

「ロサンゼルス発、よみがえれ我が祖国・日本!」様より完全コピペです。

先日、友人とスミソニアン博物館で展示されている「Art of gaman(我慢の芸術)」の話題といかに日本人が凄かったで盛り上がった。この千点以上にも及ぶ作品群には日系人の苦しみの歴史が詰まっている。

多くの日本の皆さんはアメリカで日本人が戦時中、強制収容所に入れられていたことを知らない。アメリカ在住の約12万人の日本人及び日系人は3年半の間、10カ所の強制収容所に送り込まれたのだ。そのほとんどの収容所は草木が生えない荒涼とした砂漠の中にあった。

彼らには48時間しか退去するための準備時間が与えられず、結果的に家、家財道具を安値で買い叩かれ、それまで築いた地位、ビジネス、財産、信用全てを失って、収容所生活が始まったのだった。「ジャップ!」と罵られ、バラック小屋に押し込まれ、日本人としてのプライドをズタズタにされた。

この鉄条網に囲まれた収容所のトイレはカーテンもドアも無く、便器が5つほど並んでいるだけという、若い女性は到底耐えられない所だった。

しかし、日本人は決して未来を諦めなかった。展示されている「我慢の芸術」は生活に最低限必要な日用品を手作りするところから始まった。スミソニアン博物館に展示されている作品は、芸術家でも何でもない一般の日系人が、過酷な収容所生活に耐え抜いた中で、コツコツと作られたモノを個人個人から集めたものだ。

当初、強制収容所は戦争が始まってから突貫工事で作られたもので、1万人以上の人が人間的に住める状態ではなかった。トイレも食堂も長い列で、絶対数が不足していた。

そこで日系人リーダーたちがアメリカ側の管理者と交渉して、自分たちで住み良い環境を作り出した。床の隙間からは強風のため、砂埃が入っていたので、皆で助け合いながら大工仕事もやった。そしてトイレも改築し、日本庭園、農園、学校、診療所などを作った。管理者たちも同じ予算で、いかに日本人がずば抜けた管理能力を発揮したか驚いていたという。シナ人には絶対背伸びしても出来ない事だ。

日系人が苦しんだのは監視の中、まるでモノのような扱いを受けた事だった。収容所内では「番号札」が全員に付けられ、管理するアメリカ人からは番号で呼ばれた。多くは表札を彫り上げ、バラックに打ち付けた。日本人は自分の名前に誇りをもっており、これはささやかな抵抗だったのだろう。

日本人はどんな苦難に立たされていても、後世に残るモノを作り出す才能に長けていた。家具からアクセサリーまでバリエーションを広げていった。そろばん、スズリ、箸、杖など日用品から工芸品まで作った。それも道具が無く、その道具作りから始まったのだ。

素朴で創意工夫に満ちたこういう作品は、人種や世代、国籍を越えて、見る人の心にメッセージを送り込む事だろう。

展示品を観て、多くのアメリカ人は驚き、感動を覚えた。限られた道具、材料から作られた数々。極度の絶望の中でも、日本人たちはモノを生み出す力を失わなかった。日本人は諦めなかった。これらは逆境を撥ね除けようとする日系人の、気高い精神の表現へと開花して行った。「我慢」の末に展開したその結晶が、アートとして表現された。

多くの日本人は3年半後、強制収容所を出ても、決してこの場所や白人に対して悪く言わなかった。収容所の中での我慢も凄いが、その後、二世、三世に作品を見せないで我慢していた。子供たちがアメリカに溶け込むように、アメリカに反感を持たないように、アメリカから反感を持たれないようにといった配慮が、日本人にあったのではないかと思う。そこがシナ人と違うところだ。

当時の日本人は、日本で我慢、日本から移民してからも我慢、強制収容所でまた我慢の連続。日系一世たちは、我慢の達人の域に達していた。今の日本人がこういう状況で、耐えて、こういった作品を作れるだろうか?

先人たちの凄さを改めて知った。敬意を込めて「日本人って凄いな!」

この動画は日系強制収容所内の生活と、スミソニアン博物館「我慢の芸術」展示作品紹介。短い動画ですので、ご鑑賞いただければ幸いです。日本人の気高い精神の表現です。

Exhibit Showcases Art Created by Japanese Americans During WWII



The Art of Gaman: Arts and Crafts from the Japanese American



私のイトコの2人は収容所内で生まれた。私の祖父、叔父2人もここでの生活を余儀なくされた。祖父は戦前は大きな農場を持っていたが、真珠湾攻撃で全てを失った。そのショックが響いたのか、戦後間もなく亡くなった。

当時、父の母親、アメリカ生まれの2人の姉、弟、妹は日本で暮らしていたので、親子兄弟離れ離れであった。戦時中、父は日本帝国陸軍に入隊し、フィリッピンに送られ、生まれ故郷で、父親、兄弟が生活するアメリカと戦った。

引用ここまでです。

言葉もありません。これを読まれてどんな風に思われたでしょうか?
あの原爆を落とされたときでさえ被爆者の方々は『私達は誰も怨んだりしていません』と言っています。どこからその高潔さは出てくるのでしょうか?

我々が失ったものがあったのでしょう。今ある物を逆にする事で失われたものが形を現します。
それを言う私はきっと古臭い人間なのかもしれません。
この環境でプライドを捨てずに、毅然として生き抜いてこられた先人に心からの賛辞を贈ります。


      **************************


「正しい歴史認識、国益・・・」様より引用


━━━━━━━━━━
●仙谷健忘長官(弁護士)発言集

「明らかな犯罪だ」
「責任を問うべきでないという人は不健全な国民」
「大阪地検特捜部の事件に匹敵する由々しい事案だ」
「政治職と執行職では(責任の)レベル、次元が違う」
「刑事事犯を起こした人が1人なのか、何人なのか」
「由々しき事件だ。徹底的に調べていただかないといけない。私の刑事事件経験を含めた常識からいっても、その広さと深さの想像がつかない…」

オフレコ (労組情報)
「海保員は、時が時なら銃殺刑。盗撮した読売はお家取りつぶし」
「犯人を合法非合法どんな手段を使ってもいいから洗い出せ。」
「天に唾を吐いた役人の末路がどんなものかじっくりと見せてやる。」
「本人はもちろん、親兄弟親戚一同、二度と日本に住めないようにしてやる。」
━━━━━━━━━━



【海保職員「流出」】同僚「うらなみ」乗員、ひき逃げされ負傷 産経ニュース様より 2010.11.16 12:21

このニュースのトピックス:尖閣諸島問題
 16日午前8時45分ごろ、神戸市兵庫区兵庫町の国道2号で、オートバイで通勤中の神戸海上保安部職員、東尚平さん(20)=同市兵庫区=がトラックと接触して転倒した。東さんは左足を打つなどして軽傷。トラックはそのまま逃走し、兵庫署はひき逃げ事件として捜査している。

 同署によると、東さんのオートバイに、後方から走ってきたトラックが追い抜きざまに接触したという。

 東さんは、沖縄・尖閣諸島沖の中国漁船衝突をめぐる映像流出事件で、映像の投稿を告白した主任航海士が乗船していた巡視艇「うらなみ」の乗組員。

ま、関係ないとは思いますが、この台詞の後にこんな事が起きたのでは、さもありなん・・・てことは無いですよね?とにかくこの健忘長官は一体どこの国の人なんでしょうか?

仙谷氏「暴力装置」発言 謝罪・撤回したものの…社会主義夢見た過去 yahooニュース様より 
産経新聞 11月18日(木)22時43分配信

 仙谷由人官房長官は18日の参院予算委員会で、自衛隊を「暴力装置」と表現した。直後に撤回し「実力組織」と言い換えた上で「法律上の用語としては不適当だった。自衛隊の皆さんには謝罪する」と陳謝した。菅直人首相も午後の参院予算委で「自衛隊の皆さんのプライドを傷つけることになり、おわびする」と述べた。首相は18日夜、仙谷氏を執務室に呼び「今後、気を付けるように」と強く注意した。特異な言葉がとっさに飛び出す背景には、かつて学生運動に身を投じた仙谷氏独特の思想・信条があり、民主党政権の自衛隊観を反映したともいえそうだ。(阿比留瑠比)

 「昔の左翼時代のDNAが、図らずも明らかになっちゃった」

 みんなの党の渡辺喜美代表は18日、仙谷氏の発言について端的に指摘した。

 「暴力装置」はもともとドイツの社会学者のマックス・ウェーバーが警察や軍隊を指して用い「政治は暴力装置を独占する権力」などと表現した言葉だ。それをロシアの革命家、レーニンが「国家権力の本質は暴力装置」などと、暴力革命の理論付けに使用したため、全共闘運動華やかなりしころには、主に左翼用語として流通した。

 現在では、自衛隊を「暴力装置」といわれると違和感がある。だが、旧社会党出身で、東大時代は日韓基本条約反対デモに参加し、「フロント」と呼ばれる社会主義学生運動組織で活動していた仙谷氏にとっては、なじみ深い言葉なのだろう。

 国会議事録で「暴力装置」との表現を探しても、「青春をかけて闘った学生を、自らの手で国家権力の暴力装置に委ね…」(昭和44年の衆院法務委員会、社会党の猪俣浩三氏)、「権力の暴力装置ともいうべき警察」(48年の衆院法務委、共産党の正森成二氏)-などと主に革新勢力が使用していた。

 18日の国会での反応をみても、自民党の丸川珠代参院議員は「自衛隊の方々に失礼極まりない」と批判したが、共産党の穀田恵二国対委員長は「いわば学術用語として、そういうこと(暴力装置との表現)は当然あったんでしょう」と理解を示した。

 民主党の岡田克也幹事長は「人間誰でも言い間違いはある。本来、実力組織というべきだったかもしれない」と言葉少なに語った。

 仙谷氏は著書の中で、「若かりし頃(ころ)、社会主義を夢見た」と明かし、その理由としてこう書いている。

 「社会主義社会には個人の完全な自由がもたらされ、その能力は全面的に開花し、正義が完全に貫徹しているというア・プリオリな思いからであった」

 仙谷氏は後に現実主義に「転向」し、今では「全共闘のときの麗しい『連帯を求めて孤立を恐れず』を政治の場でやるとすってんてんの少数派になる。政治をやる以上は多数派形成をやる」(7月7日の講演)と述べている。とはいえ、なかなか若いころの思考形態から抜け出せないようだ。

 「ちょっと言葉が走った。ウェーバーを読み直し、改めて勉強したい」

 18日午後の記者会見で、仙谷氏はいつになく謙虚にこう語った。

 (注)「ア・プリオリ」は「先験的」の意味


柳田法相に松田哲久議員の発言といい・・・ったく、この内閣完全に終わっています。

オフザケが過ぎますが、「正しい歴史認識・・」様より写真をお借りしました。
こんなだからこんな事をされるんですよね。何でこんなに上手く作れるのかな?

sengokuさん仙石、菅さん

気分が悪くなった方、本当にごめんなさい!
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