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ビキニ環礁

ビキニ環礁

トリエルさんからコメントを頂いていますが、ビキニ観賞ではなく、ビキニ環礁の核実験について調べてみました。

"ビキニ水爆被災から50周年 核実験場とされたマーシャル諸島の今" を、書かれています。
竹峰誠一郎(早稲田大学大学院博士課程・国際関係学専攻)

はじめに: ビキニ水爆被災とは

 2004年3月1日、「ビキニ水爆被災」から50周年を迎える。半世紀前の1954年3月1日、アメリカは、マーシャル諸島のビキニ環礁で、「ブラボー」と名付けた水爆実験を実施した。この水爆実験は、日本国内ではビキニ(水爆)被災、ビキニ事件、第五福竜丸事件などと呼ばれてきた(本稿では、ビキニ水爆被災という呼称を用いる)。ビキニ水爆被災は、広島、長崎に続く核兵器による被害、とりわけ「死の灰」による「被曝」問題を世界的に告発し、原水爆禁止運動の出発点ともなった。

ビキニ環礁の地図
※マーシャル諸島は太平洋中西部に位置する29の環礁と五つの珊瑚島からなる海洋大国。人口は5万。
1986年米国との間に自由連合協定を締結し独立。


 1954年3月1日、アメリカが水爆「ブラボー」をビキニ環礁で爆発させた時、東約160キロメートルの海域には、
静岡の焼津港を母港とするマグロ延縄漁船、第五福竜丸が操業中であった。
第五福竜丸は、アメリカが当時核実験場周辺に設定していた危険区域の外にいた。
しかし乗組員23人は、水爆「ブラボー」に遭遇し、空から降ってきた白い粉を浴びた。
白い粉とは、水爆の爆発により焼けた珊瑚礁が、灰になって上空に吹き上げられ降下したものであり、その珊瑚礁の
灰には、核爆発によって生じた放射能(放射性物質)が多量に付着していた。それはいわゆる「死の灰」であった。

 「死の灰」を浴びた乗組員は、3月14日焼津港に帰港した。乗組員全員が「急性放射症」と診断され、都内に搬送されて入院した。第五福竜丸のヒバクは、帰港2日後の1954年3月16日『読売新聞』朝刊一面でスクープされ、社会問題化した。
第一報では、「邦人漁夫、ビキニ原爆実験に遭遇」、「23名が原爆病」、「太平洋ビキニ環礁付近で、焼津の第五福竜丸が原子爆弾らしいものに遭遇した」、「水爆か」などと伝えられた。

 第五福竜丸のもとには、東京・大阪・広島から専門家がかけつけ、乗組員の健康調査や第五福竜丸の放射能調査が行われた。第五福竜丸の船体と、持ち帰ったマグロ、サメ、サンマなど2500貫(1貫3.75キロ)からは強い放射能が検出され、魚は廃棄処分となった。

 放射能の検出は、第五福竜丸だけにとどまらなかった。その年の3月から12月まで日本政府の指示により、マーシャル諸島周辺海域を通過した漁船の放射能検査が行われ、連日大量の魚が廃棄処分となった。政府調査だけでも、被災した日本漁船の総数は856隻、廃棄された魚は約486トンにのぼった。

 ビキニ水爆被災は人々の日常生活を直撃した。放射能に汚染されたマグロは「原爆マグロ」と呼ばれ、その騒動は日本全国に波及した。街の魚はほとんど売れなくなり、廃業する魚小売業者も出た。その年の4月以降には「日本全国で放射能雨が降った」との報道により、農産物に対する恐怖も広がった。

 9月23日には無線長の久保山愛吉さんが亡くなった。久保山さんの最期は壮絶で、暴れて、静止をしようとする家族に「何をやったって効きゃあしない。こんなことぁもうたくさんだ」と怒鳴り返していたという(大石又七『ビキニ事件の真実』みすず書房、2003年、55頁)。

 ビキニ水爆被災は、日常生活を直撃し、かつ日本人にとって広島、長崎に次ぐ三度目の核犠牲者を生み出すものとなった。それは原水爆兵器に対する怒りと恐怖となって、原水爆実験反対署名運動が津々浦々でとりくまれた。署名運動は思想・信条・政党・宗派をこえて行われ、1955年8月には3200万人にも達した。こうした署名運動を背景に、広島・長崎の体験も思い起こされ、55年8月、第一回原水爆禁止世界大会が広島市で開催されるに至った。

 署名運動は世界的にも広がりを見せ、全世界で6億7000万人に達した。1955年ロンドンにおいて、ノーベル賞受賞らが
連名で、ラッセル・アインシュタイン宣言を発表した。宣言では、人類と核兵器の危機的な関係を直視し、東西の立場を超えて人類の生存の問題として共に核兵器廃絶に踏み出すことが訴えられた。

 世界のニュースとなった第五福竜丸の背後には、「死の灰」を浴びたマーシャル諸島の現地の人々がいた。
このことが日本で知られるようになったのは、あの「ビキニ」から17年後の1971年、原水禁を中心に開催された
「被爆26周年原水禁世界大会」に2人のミクロネシア代表(当時)が参加してからである。原水禁は、彼らの調査団派遣要請にも応え、1971年医療調査団をいち早く派遣した。調査報告は、原水爆禁止日本国民会議・ミクロネシア
調査団編『ビキニ水爆実験によるマーシャル群島民の被曝調査報告』1972年、にまとめられている。

 ビキニ水爆被災の舞台となったマーシャル諸島では、広島・長崎への原爆投下から1年後の1946年から1958年にかけて、
ビキニ環礁とエニウェトク環礁において67回に及ぶ原水爆実験がアメリカによって実施された。そのなかでとりわけ現地の人々に影響を与えたのが、1954年3月1日に実施された水爆「ブラボー」、つまりビキニ水爆被災であった。
マーシャル諸島において3月1日は、核被害を想い起し被害者を追悼する「Nuclear Victims Remembrance Day」という公休日となっている。「あのビキニ」から50年、核実験場とされたマーシャル諸島の今を、現地調査をもとに報告する。


※ 第五福竜丸

「被爆」

その日、日本のマグロ漁船:第五福竜丸はビキニ環礁の東方160キロメートルの海上で操業していた。

午前3時45分、突如西の空が明るく輝き、水平線から巨大な火の塊が浮かんだ。数分後に大爆発音が轟き、

3~4時間後には空全体を覆った雲から白い灰が落ちてきて、甲板に積もり始めた。

白い灰は乗組員の顔、手、足、頭髪に付着し、鼻腔から隊内にも吸いこまれた。やがて放射線による火傷が

生じ、顔はどす黒くなり、歯ぐきからは血が滲み出た。急性放射線症状である。

第五福竜丸は、3月14日に母港の焼津に帰りつき、乗組員は焼津協立病院で治療を受け、特に症状の重い

二名は東京大学付属病院に急遽入院し、残る乗組員21名も順次上京して入院した。

その後も、第十三光栄丸、第五明神丸など放射能を受けた漁船が発見され、廃棄された魚は457屯にも

及んだ。(一部抜粋。)


「東京都第五福竜丸展示館」 お近くにお住まいで行ってみようと思われる方は、1度ご覧になるのも良いのではないでしょうか?





「セミパラチンクス18年後の現実」




「ビキニ核実験はこうして行われた」

 

1から5まであります。あまりにも長いので、それに見るに耐えない画像があるため短いものをアップしました。
これには残酷な画像は含まれていません。


「ビキニ環礁核実験」



人類史上5番目の核爆発。
1946年7月25日マーシャル諸島ビキニ環礁ビキニ環礁で行なわれた核実験クロスロード作戦ベーカーの記録。 
使用された爆弾は、長崎に投下されたものとほぼ同型で、200万トンの水を噴き上げ、環礁を1800メートルにわたって
削り、無人の船舶9隻を沈没させた。


ラビア・カーディルとダライラマ ラビア・カーディルとダライ・ラマ14世


私が、何故これだけ原爆に拘るのかというと、どうしてももう1つの被爆国のことを忘れてはならないと思うのです。
日本は長崎、広島に原爆を落とされました。唯一の被爆国、、、そう思っていました。
それが根底から崩れ去りました。もう1つあったのです。其れはまた次の機会に。。。




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~ Comment ~

No title

シェイドさん
ご紹介ありがとうございます。
ビキニ鑑賞!座布団2枚!!(^^;)

館内の資料は読み物が多いのですが、思わず読み入ってしまいました。
資料館のある夢の島は、緑が多くて、ヨットハーバーや、熱帯植物園などもあって良い所です。
地下鉄の駅前で交通便も良いです。

No title

第五福竜丸は、一時、夢の島に打ち捨てられ、荒廃するままになっていました。今は屋根付きの資料館になっていますよ。

原爆の救助のため二日後に広島に入市した母親(日赤の看護婦)から生まれ、戦後ずいぶんたって産まれた兄の同級生は、五人兄弟のうちで唯一、白血病で24歳の生涯を閉じました。両親にも他の兄弟にも白血病その他の症状は出ていません。原爆の因果関係は認められていません。歳のはなれた兄ですが、同じ町内の兄の友人の小ちゃんには子供の頃によく遊んで貰ったのですが・・・

トリエルさんへ

こんばんは~♪
ありがとうございま~す、、座布団2枚!!(爆)

棄てられた、ということが信じられませんね。
今はこうやって静かに休めるところが出来て、良かったと思います。
歴史の証人ですから。

チャンスがあれば行って見たいですね。
知らない事がいっぱいです。

東京は交通の便が良いですよね。
大阪は都会は良いけど、ちょっと田舎になると一気に便が悪くなります。。。

ウラン父さんへ

こんばんは!
ちゃんとした資料館に、なっているようですね。
子供達に、きちんとしたことを教えてあげないといけませんね。
歴史は捻じ曲げてはいけません。淡々と事実だけを伝えるのです。

母の従兄弟だと思いますが、長崎に住んでいます。
ただ一人、座敷に居て障子の陰で助かりました。被爆したのですが、和紙の
お陰で命拾いをしたんです。
呉服屋さんですが、蔵の壁に人型が写りこんでいたそうです。

お母様は看護婦さんだったのですか?!それは大変だったと思います。
あの光景は、きっと生涯忘れる事は出来ないでしょう。

白血病は突然何もない人にも起きますから、それを証明する事は不可能でしょう。
若すぎる死は深く心に突き刺さります。無念と同時に・・・。

その後、父さんは何も影響はありませんか?

少し誤解が・・・

書き方が悪かったようです。
正ちゃんは、同じ町内の兄の同級生です。正ちゃんのお母さんが日赤の看護婦で広島に救援に行ったのです。我が老母はずっと若く、戦後の新制中学の卒業生です。
>白血病は突然何もない人にも起きますから、それを証明する事は不可能でしょう。
その通りで、今も放射線の影響の正確な検証は出来ていないようです。広島長崎だけでなくチェルノブイリでも・・・

ウラン父さんへ

そうでしたか。申し訳ありません。
父さんの年齢とを考えてみたら、お若いはずなのに・・・お父様の事を思い出しながら
納得できました。
勘違いってズレちゃいますね。すみません。^^;
どちらにしても、大変な経験をなさったようですね。--;)

私の知人にも、この病気の人が居ましたが、人それぞれでその人の事は、
あまり思い出したくありません。

チェルノブイリをバイクで旅した女性のお話を読みました。キエフの人です。
とっても自然がいっぱいで、沢山の野生動物が生息しているようです。
それはまた別の機会に。。。

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